今日6月23日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」です。
沖縄で行われた戦争によって20万人(県民の4人に1人)が命を落とし、沖縄の美しい風景も当たり前の日常もすべて焼き尽くされました。
1.きっかけ
このような大惨事を招いたきっかけの一つに、1941年12月8日の日本軍によるハワイ・真珠湾(パールハーバー)への奇襲攻撃があります。これにより、アメリカに対して「日本は自国を攻撃した敵国だから報復は正義の攻撃だ」というこれ以上ない戦争の大義名分を与えることとなりました。
真珠湾攻撃を受け激怒したアメリカは、「日本本土への上陸と日本を屈服させること」を最終目標に、総力を挙げて攻撃を続けていました。
その過程の中で白羽の矢が立ったのが、日本本土への地理的な玄関口となる沖縄でした。
2.沖縄での戦争の激化
1944年10月10日、米軍の軍用機が沖縄を標的に大規模な爆撃を行い、那覇市の市街地の約9割が焼き尽くされました。民間人にも数百人の犠牲者が出てしまいました。
1945年3月26日、米軍が沖縄本島近くの慶良間(けらま)諸島に上陸を開始したことで、日本軍と米軍の兵士同士が直接撃ち合う地上戦が本格的に始まりました。
4月1日には沖縄本島にも上陸し、県民を巻き込む戦闘行為が繰り広げられました。
3.地獄絵図
当時、日本軍の司令部は首里(現在の首里城の地下)にありました。
米軍がどんどん侵攻し、5月下旬、首里の司令部を守れないと悟った日本軍のトップは降伏ではなくさらに逃げ続け、少しでも長く戦い続けるという選択をしました。
その逃げ込んだ先には数多くの一般県民が避難していたので、米軍の猛烈な攻撃もそこに集中することになりました。
そして、断崖絶壁まで追いつめられると、いよいよ逃げ場がなくなりました。
狭い洞窟には軍人と民間人がすし詰め状態となり、飢餓や伝染病、米軍のガス弾で次々と命を落としてしまいました。日本の兵士が、泣き叫ぶ赤ちゃんの声で敵に見つかることを恐れ、母親に殺害を強要したという話もあります。
4.組織的な戦闘の崩壊へ
1945年6月23日、武器も弾薬も食料も尽き、完全に包囲されたことを受け、日本軍トップの司令官が自決しました。死ぬ直前、生きている兵士たちに「最後まで戦い抜け」、つまり「降伏するな」という命令を残し、命を絶ちました。
しかし、司令官がいなくなったことで指揮系統が統率できなくなり、統制の聞かなくなった日本軍の兵士が泣き叫ぶ子どもを殺めたりと、本来守るべき住民に牙をむくという凄惨な惨状を生み出しました。
5.なぜこの日が慰霊の日になったのか
軍のトップが自決して組織が崩壊した日をあえて「慰霊の日」に定めた背景には、「軍隊という武力は、結局のところ住民の命を守ってはくれなかった」という強烈な実体験があります。しかし、そのままネガティブな日と設定するのではなく、考え方を変え、「命の尊さを確認し、恒久平和を誓う、最も祈りに満ちた日」と定義しました。武力による解決を否定し、「二度と戦争はしない」という平和への誓いを立てる日なのです。
6.集団的自衛権の危険性
1941年12月8日の真珠湾攻撃でもわかる通り、他国への攻撃は相手国からの反撃を正当化させるものです。
もし今の日本が、全くかかわってないアメリカの戦争に集団的自衛権の名のもとに加担することとなった場合、相手国からの攻撃の対象とされます。
現在、日本の国土面積のわずか0.6%に過ぎない沖縄県に、全国の在日米軍専用施設の70%が集中しています。相手国がミサイル等による報復攻撃の標的とするのは、日本の軍事的中枢であり、最も米軍基地が密集している沖縄になる可能性が極めて高いのです。県民からは「再び沖縄が標的にされるのではないか」という切実な懸念の声が上がり続けています。
7.私たちが慰霊の日に誓うべきこと
沖縄戦の悲劇は遠い昔の出来事ではなく、現代の私たちが直面している問題とも続いています。凄惨な戦争により多くの人が命を落としたという歴史によって示された「極限状態の時は、軍隊は住民を守らない」という事実。
私たちは「国防」や「同盟」という言葉の裏で、再び沖縄を犠牲にしかねない政治的決断を許してはなりません。
