現場、くらしに組合力 埼玉土建 一般労働組合

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埼玉土建の組織の特徴

「一般」労働組合とは

埼玉土建は建設労働者の賃金と労働条件、暮らしをよくする為に、思想・信条・宗教・政党支持の違いをこえて団結した大衆的労働組合です。 一般労働組合とは熟練 ・非熟練、常傭 ・手間請、町場 ・野丁場 ・新丁場にかかわらず、一人でも加入できる組合のことです。 埼玉土建は利害の近い一人親方から一定の労働者を雇う事業主層まで組織し、建設業界での影響力を高め、地域と産業の民主化をめざしてたたかう組合です。

産業別・居住地別・個人加入の労働組合

日本では多くが企業別の労働組合ですが、埼玉土建は職種や勤め先・現場のちがいをこえて同じ産業に働く仲間として、一致する要求にもとづき自主的に加入した、居住地単位に組織した組合です。だからこそ個別の企業の利害や資本の支配・干渉を受けず、仲間の立場になって仲間を大切にして活動できるのです。

メリットのある組合

埼玉土建は病気のときの総合共済や土建国保 ・労災保険や建退共、資格取得からどけん共済会など、仕事と暮らしに役立つ豊富なメリットがあります。国や自治体・大手企業には建設業をよくする運動をすすめながら、組織のスケールメリットをいかして仲間の要求を実現する、実務のしっかりした組合です。

埼玉土建ができるまでの歴史

明治から戦前の建設労働者のたたかい

建設労働者は生活と権利の拡大をめざして、さまざまな闘いに参加してきました。今から120年前、明治17(1884)年におこった秩父事件では屋根板職人の小柏常次郎をはじめ、大工 ・石工 ・左官 ・建具 ・土方 ・木挽き ・鍛冶屋など多くの建築職人の姿を見ることができます。 建設労働者の争議としては、明治11(1878年)横須賀造船所伊豆西浦石材切り出し工場で賃上げを要求して、石工2百人余が組織的逃亡を繰り返した事件が記録されています。 明治24(1891)年、「同盟罷業はじめておこる」と徳富蘇峰が 「国民の友 」に書いた石工1300人が参加したストライキが決行され、翌年8月には左官1600人もストライキに立ち上がっています。 昭和6(1931)年、全協(日本労働組合全国協議会)によって、はじめての建設関係の労働組合、全日本土木建築労働組合が結成されました。この年、東京全市6千人におよぶストライキが結構され、日本銀行や国会議事堂の建設現場まで巻き込むたたかいとなりました。またこの年、府中競馬場の左官のストライキもたたかわれています。 石工のストライキを指導した伊藤清をはじめ、戦後東京土建の結成に礎(いしずえ)を築いた大工の外沢謙次郎、塗装工の大杉甚太郎など、全協で活動していた人達でした。

東京土建の結成と草創期の活動

戦時体制に押しつぶされていた労働運動は、戦後の焼け野原の中で新たな息吹を吹き返します。戦後の混乱と食糧危機の中で労働運動は急速に広がり、昭和22年の2・1ゼネストへと発展していきました。 東京土木建築労働組合(のちに東京土建と改称)が誕生したのは、こうした激動の時代でした。昭和22(1947)年1月15日、東京・下谷公会堂で開かれた結成大会にはおよそ100人が参加。職人らしい人が70人。うちお金(組合費)を払った人は35人だったといわれています。 結成されたばかりの東京土建は、終戦後現場労働者に配給されていた「労務加配米を公平に配布しろ」「労務ボスの横取りを許すな」の運動にとりくみます。これは組合が組合員に直接現物を届ける困難な仕事でした。組合は加配米「受給群」をつくり、リヤカーで届けて歩きました。これによって居住地ごとに ・職種別でなく産業別に ・親方も職人も一緒に組織するという組織の骨組みを形成されていきました。 組合は「職人から事業税を取るな」「不当徴税反対」の運動、一人親方労災の適用、就労確保を要求した職安・都庁への「へたりこみ」闘争などをたたかい、組織も26年には2535人(予算案)になりました。

日雇健保の獲得と改善のたたかい

「ケガと弁当は手前もち」といわれた土建労働者にとって、健康保険の適用は組合結成以来の切実な要求でした。昭和27(1952)年、東京土建や自由労働者・付添婦・派出看護婦・鼻緒工などが日雇健康保険獲得期成同盟をつくり、駅頭署名や国会議員要請、厚生省交渉をかさねました。のちに厚生省の役人に「カラスの鳴かない日はあっても、建設職人の地下タビが赤じゅうたんを踏まない日はなかった」といわせたほど粘りつよい闘争でした。 こうして28年8月に日雇健康保険法が成立し、9月から組合を事業主とみなす「擬制適用」もでき、建設職人も加入できるようになりました。 日雇い健保の獲得は、前年ひき起こされたメーデー事件によって受けた組織的打撃をはね返し、その後の東京土建発展の土台をつくりました。

日雇健保改善と国民健康保険の発足

発足したときの日雇健保は療養期間3ヶ月、入れ歯はできない、国庫負担は事務費だけというひどい内容でしたが、その後の運動で療養期間の延長や国庫負担3割へと改善させました。 昭和34年、市区町村の国民健康保険制度が準備される中で、東京土建は日雇健保加入促進委員会を設置し、ビラ3万枚とポスター8千枚という空前の大量宣伝をおこない、組織は8500人から1万5千人に躍進させました。

東京土建の組織強化と居住地再編

1960(昭35)年の安保闘争の高揚を背景に、東京土建などの土建総連、全建労、東建産が統一し、全建総連が結成されます。その力で本格的な賃金引上げ闘争に取り組み、61年8月、賃金引上げをかかげた初めての決起集会を4000人で開き、700~800円だった賃金を年末には1300円程度に引き上げることに成功します。 一方、日雇健保の改善がすすむと政府は、財政赤字を理由に保険料引き上げや加入制限の攻撃を強めてきました。 東京土建は反撃する力を強めるために、組織拡大と活動参加を広げる取り組みを本格化します。昭和38年5月と6月に「幻灯をみる群会議」を開催し、7月25日には全都いっせい地域提灯デモが取り組まれ、各地で2万人が参加しました。その後も、「日雇」改悪の攻撃とその反撃のせめぎ合いが続く中で、43(1968)年9月、東京土建は11月1日からの「行政区別居住地再編」を決定。「民族大移動」といわれたこの事業が、埼玉土建の結成を準備したのです。

埼玉土建の結成

埼玉に東京土建の支部を建設

埼玉土建結成への歩みは、1965(昭40)年の東京土建第18回大会から具体的なものになっていきました。この大会は、日雇健保の改悪案(薬代半額負担と保険料大幅引き上げ)に反対して「一歩も引き下がれぬ」という決意を固めあうとともに、「埼玉に新支部結成」という歴史的方針を決定した大会です。 東京土建埼玉県南支部結成大会は1965(昭40)年10月13日、西川口の並木公民館に50人が参加して開かれました。この年、県南支部は蕨神社でちょうちんデモも行ない、埼玉でのたたかいをスタートします。 68年の居住地再編の結果、東京土建の支部がなかった埼玉・神奈川・千葉の組合員は新たに支部をつくることになり、69年4月までに草加・川口・浦和・大宮・朝霞大和・新座・埼玉西部(所沢)の7つの支部が誕生し、埼玉土建結成の基礎がつくられました。

日雇健保の擬適廃止に反対するたたかい

1970(昭45)年1月の臨時国会に提出された日雇健保改悪案は、保険料を3・5倍に引き上げるなど「これが通れば廃止に等しい」内容でした。東京土建は東京社保協と共同で100万枚のビラを配布。連日国会に詰めかけました。 連日議員面会所の外まであふれる仲間のたたかいの中で5月13日、日雇健保改悪案は参議院で廃案になります。ところが政府は「擬制適用は5月一杯で打ち切る」という方針を決定。翌朝の新聞・テレビがいっせいに報道しました。「国会無視だ 」 「報復攻撃だ 」と仲間の怒りが爆発。中央・地方で廃止撤回のたたかいが燃え上がります。厚生省や都庁・区市役所で座り込み、主婦の会はテレビ番組に出演して訴えました。県庁前築山に座り込んでいた埼玉土建とそこに集合していた埼建労が合流して「共同闘争」となったのもこのときです。

埼玉土建国保組合の設立

政府自民党は全建総連の運動の盛り上がりを切り崩すため、日本 ト ヒ ゙職連合会を使って国保組合を設立させます。全建総連も国保組合の認可を申請し、政府・厚生省は県を単位に国保組合の設立を認可します。 こうして1970年8月1日、東京土建の9つの支部を母体に「埼玉土建国保組合」が設立されました。埼玉に住む組合員も十割給付の国保に加入する道がひらかれたのです。 設立当初の国保加入者は組合員2,165人、家族5,239人でした。 日雇健保を失ったことで一時4,220人いた組合員が2,789人に激減し、独立採算だった支部は財政危機におちいっていました。とくに70年春に埼玉西部支部から独立した川越や入間支部は100人を割っていました。 十割給付の国保を獲得し新たな展望を得た組合は、この危機を乗り切り土建国保を守り抜くために、必死の拡大に取り組みます。業者登録の運動や2級土木施工管理技術者の特別研修などをとおして、翌71年4月には3486人にまで回復させたのでした。

埼玉土建一般労働組合の結成

埼玉土建の結成大会は1971年9月26日、埼玉教育会館において開かれました。9支部4,085人の組織でした。連日連夜の国会動員・座り込み、脱退者を呼び戻しと組織拡大、文字通り不眠不休の闘争でかちとった結成大会に万感胸を熱くしたものです。日雇健保が奪われて501日。仲間たちの苦労を洗い流すような雨が降り続いていました。 結成大会で足立良男委員長は、「埼玉土建の組織なくして、建設職人の歴史、埼玉県の労働運動を語ることができないような強固な労働組合」をめざそうとあいさつしました。 埼玉土建は組織と制度 ・運営は基本的に東京土建を引きつぎましたが、地域共闘をすすめ革新統一の一翼を担うことと、必要なところに全体の力で支部が建設できるよう財政をプール化し単一組織の機能を高めたことは、埼玉土建が独自に発展させたものでした。

埼玉の地に根をおろして

革新県政の実現

結成の翌年、歴史的な県知事選挙がたたかわれます。埼玉土建は結成大会の確認にもとづいて「明るい革新県政をつくる会」に正式加盟し、組織をあげたたたかいで、畑やわら革新県政を実現させます。 革新県政は土建国保への補助金交付、無担保無保証人融資、県独自の老人医療無料化、県立高校の新増設など県民本位の政策を次つぎに実行していきました。

土地・建設資材の暴騰、品不足とのたたかい

1972(昭47)年7月、日本列島改造をかかげて田中内閣が誕生。開発の思惑から木材 ・建材の暴騰、地価の急騰とあいまって仲間は仕事不足におちいりました。73年3月22日、全建総連5400人が日比谷の森を埋めつくし、「買占めやめろ」の怒りのムシロ旗を押し立てて6大商社におしかけます。埼玉土建363人は伊藤忠商事を取り囲みました。 春以来の塩ビ管・電線につづいて、秋にはセメント・ボンド・石膏ボード・釘が店頭から姿を消しました。埼玉土建は問題を革新県政にもちこみ、県として問題解決を要求します。県は秩父セメントを県庁に呼び出してモノ不足の実態を調査。暴騰前の価格で放出させることに成功しました。つづいてボンドや石膏ボードも県の仲介で実現しました。 73年11月の第一次石油ショックはモノ不足、価格高騰をまねき、洗剤やトイレットペーパーなど生活関連物資に襲いかかります。74年2月18日には全建総連は再び15000人を日比谷に集め、物かくし。売り惜しみの犯人、経団連へ抗議を集中し、財界代表を国会で証人喚問するというたたかいの方向をつくりました。この集会に埼玉土建は組合員の24%,1707人が参加しました。

非災害性腰痛の労災認定

1975年9月、大宮支部の大工・左官4人が直接的な原因のない腰痛を労災保険で補償することを求めて集団申請しました。電気カンナや作業道具を監督署に持ち込んで交渉し、現場に出向いて機械や材料の持ちあげ作業を調査してもらうなかで、12月非災害性腰痛としては県内はじめて業務上災害として認定されました。1978年には新座志木支部が現場での脳出血や心疾患で倒れた仲間の過労死認定をかちとり、要求実現の新たな分野をひらきました。

住宅デーと賃金運動

石油ショック後の総需要抑制で、住宅金融を極端に引締められます。住宅デーは住宅相談や包丁とぎなどを通して地元のお客さんとの地縁を取り戻す取り組みで、1978年6月にはじまりました 70年代の賃金運動は、協定賃金の発表・ステッカーはりや決起集会 ・トラックパレードなどの対外宣伝と世論作りが重点をおきました。81年には県北の賃金引上げが全県の賃金相場を左右すると、秩父地域に宣伝カー15台と宣伝隊95人をくり入れました。

十割給付の土建国保を守るたたかいと組織拡大

仕事を休めばすぐ収入がなくなる建設労働者にとって、本人十割給付の土建国保は文字通り「命の綱」です。その国保組合の健全な運営を確保することが結成当初の運動の柱でした。全建総連は国保組合に対する補助金の増額に取り組み、設立した年には補正予算をふくめて5億円だった臨時調整補助金を毎年引き上げ、78(昭53)年には203億円にまで増額させ、さらに79年からは総医療費の40%の定率補助が実現しました。 組織建設では結成から10支部を結成し、81年3月人員は12,377人に急成長し、10年で3倍の躍進となりました。

嵐にゆるがぬ組織づくりへ

健保改悪反対闘争と地域ちょうちんデモ

1983(昭57)年、中曽根臨調路線に反対し、自らの力で情勢を切り開こうと行った地域ちょうちんデモでは、各支部が万灯・みこしなど創意をこらし、寒風吹きすさぶ2月26日を前後して、26会場4711人を結集させました。 この年8月、概算要求のなかで健康保険の改悪案が姿を現します。埼玉土建は直ちに反撃を開始。9月と10月にちょうちんデモを実施。近所や駅頭でひとり5倍の署名に打ってでます。こうした世論の高まりの中で、12月の総選挙では田中金脈批判もあって自民党を過半数割れに追い込みます。84年2月、上尾で開かれた集会には県内民主団体が総結集し、健保ストライキも提起されます。炎天下の7 ・29代々木集会には全国から11万人が参加しました。埼玉土建の参加は1,925人、署名は65,840筆(組織の2.97倍)とともに運動の新しい峰を築きました しかし会期を77日も延長した自民党は公明 ・民社を修正案に引きこみ、社会党とはウラ取引して8月7日、採決を強行しました。健康保険の一割負担は通りましたが、土建国保の十割給付が守り抜かれたことは組織の総力をあげて勝ち取ったたたかいの成果でした。 健保闘争は県内民勢力のなかでの埼玉土建への信頼を高め、統一労組懇と県内共闘を強化させる画期となったといえます。

大型間接税 ・消費税に反対し、導入を阻止するたたかい

1987(昭62)年には新年から中曽根内閣が大型間接税を準備。地域学習会 ・県民集会から16万人の3.8代々木集会と国民的反撃が広がりました。 スーパー前署名には行列ができ、浦和の伊勢丹には反対のタレ幕がかかげられました。主婦の会は大宮そごうの新規開店に140人が集まり、2時間で2785人の署名を集めました。その結果、4月の統一選前半で自民党は105議席を失い、ついに中曽根内閣は売上税断念を発表しました。 88年埼玉土建は、9月18日北浦和公園で「つぶせ消費税集会」を開きます。単独で1万人を集めたこの集会にはレオナルド熊さんも出演。 一人千円の募金は9割の仲間から寄せられ、埼玉土建の組織力を内外にしめしました。 きびしい攻防は年末まで続きましたが、昭和天皇の重体を利用して公明・民社をひきこみ、12月24日消費税法案が成立されてしまいました。

統一労組懇から埼労連へ

炭鉱爆発と閉山の危機にあった夕張を支援しようと灯油を贈る主婦の会の運動は、埼玉土建の心あたたまる歴史のひとコマでした。また国鉄の分割民営化・解雇反対の運動 ・沖電気争議団支援など働くものの連帯にも取り組みました。 1980年代には、政府財界は「生産性基準」を押し出し、春闘押さえ込みを図る一方、社公合意をテコに労働戦線の右翼再編を推進しました。 これに対して埼玉土建など階級的発展を願う勢力は、80年1月10組合3地区労で埼玉統一労組懇を結成し、地域センターの機能を高め、1989年11月17日に埼労連の結成へと前進します。結成時の埼労連は27組合4地域組織85,881人でした。 埼玉土建は86年3月までの第3期5カ年計画で28,533人へ2倍化し、県内最大の労働組合に発展。91年3月までの5年で56.046人とさらに倍化し、5万人を大きく突破しました。

21世紀に新たな飛躍めざして

バブル崩壊と賃金単価改善の運動

80年代以降、建設産業の構造は大きく変化しました。大型公共工事の推進は大手ゼネコンの強化につながり、住宅の工業化 ・商品化は分譲住宅をふやすことを通じて住宅メーカーを育成しました。すなわちゼネコン ・住宅メーカーによる中小や町場の下請化 ・系列化 ・手間請化がすすみ、大手資本との対決なしには賃金 ・労働条件の改善が考えられない状況が生まれました。 こうしてはじまったのが大手企業交渉です。1986年からはじまった大手交渉はゼネコン ・住宅資本とは直接雇用関係がない労働組合が、企業担当者を交渉のテーブルにつかせています。これは世界的にもまれな先進的な経験です。町場中心だった組織が、野丁場やプレハブ・新丁場の中にも影響力を拡大し、建設労働組合の協力ぬきに現場の管理や安全確保ができない状況をつくりだした反映でした。企業交渉は現場の労働安全や労災隠し、とりわけ「不払い」解決に威力を発揮し、5年間で15億円を元請に立替払いさせる方法で解決しました。 またこうした実績のうえに、ゼネコン現場への立ち入り調査や地元の企業 ・業界団体との対話と共同がすすめ、建設業界に民主的ルールを確立する運動がひろげています。

県庁包囲と自治体要求

バブル崩壊によって建設市場は縮小し、仲間の仕事不足が深刻化し、賃金は20年前の水準に落ち込みました。埼玉土建は仲間の仕事を確保するため、提案型の運動で自治体交渉を強めました。 99年には県政史上はじめての県庁包囲 ・個人請願にとりくみ、 建退共埼玉方式を実現、また多くの市町村で住宅リフォーム助成や小規模工事登録制度が誕生しました。 埼玉土建は2005年独自の技術研修センターの開設し、アスベスト特別講習では半年で9000人が修了するなど大きな役割を果たしました。 一方、95年1月17日発生した阪神淡路大震災には、埼玉土建から技術を生かした49人のボランティアを派遣し169件の住宅診断をおこなうとともに、救援募金3600万円を贈りました。

十割給付への攻撃と埼玉土建国保の給付変更

政府・厚生省は医療給付の一元化をねらい、十割給付の国保組合への圧迫をさらに強めます。90年には「十割給付はグリーン車」という発言があらわれ、朝日新聞は「いまどき十割給付なんて不公平」と報じるなかで、94年には厚生省は 「十割給付はルール違反 」と各国保組合に給付引下げを求めてきました。埼玉土建は、法人事業所の適用除外の手続きをすすめながら、この年7月24日には別所沼に1万人を集めてこの攻撃を押し返し十割給付を守り抜きました。 しかし97年には政管健保が9割から8割に後退し、99年の全建総連(中央建設国保)につづいて東京土建も八割給付へ移行し、補助金へのペナルティーが強化されるなかで、埼玉土建国保は03年4月から八割給付への後退を余儀なくされたのでした。償還払い制度は当初本人だけだった入院無料を06年から家族まで広げ、医療費貸付制度も充実させています。

どけん共済会の発足

共済活動を抜本的に強化し、建設労働者のあらたな結集をめざして、2001年9月「どけん共済会」を立ち上げました。01年に病気入院一日5000円の総合共済と自動車共済がスタートし、以来、どけん火災共済・介護共済・DOKENカードなど仕事と暮らしをまるごと支援する事業で新たな魅力をつくり発展させてきました。 同時に、役員が組合員の家を訪問し、仲間に業務を普及する活動も始まりました。これは班会議を開催し組合活動への仲間の結集を高めることともに、日常的に組合の良さを実感してもらう上でも重要な活動です。

支部と分会 ・組織の強化

埼玉土建は1991年の第五期中期計画からの10年間で82.111人へ31.626人を実増させ、建設就業者の24.92%を組織しました。 これは県民30世帯にひとりは埼玉土建の組合員という水準になります。 深刻な不況のなかで自殺に追い込まれる仲間もでるなかで、「まさかに強い埼玉土建」を押し出し、頼りになる組合 ・力のある組合を語って組織の活力を発揮し、意識的に組織拡大を追及してきた蓄積によるものです。 「分会8つの課題 」の追求では、89年 「ベストテン分会交流集会 」を開き先進分会の活動教訓を引き出し・普及するとともに、全県水準の向上が図られました。当初納入受付だけだった分会から役員が選出され ・役員会が定例化し・集団指導体制に、やがて分会行事や分会住宅デーがどこの分会でもできるように活発化してきました。

第13期中期3カ年計画がめざす方向
1.第12期中期計画は4カ年で奮闘してきた 第12期中期計画は、2018年度から2021年度の4カ年計画とし、これまでの「4つの柱」を継続、発展させつつ、住推協、土建国保、共済制度を確信に、目前に迫った「2022年問題」や組織強化、新しい役員づくりをすすめ、4カ年で7万人の組織回復をめざしてきました。 産業民主化のたたかいでは、働き方改革の学習、建設キャリアアップシステムの普及などの働くルールづくりをすすめ、アスベスト訴訟では原告とともに宣伝、議員訪問、議会対策など粘り強くたたかい、第1陣訴訟から13年を経た2021年5月に最高裁判決による画期的な基本的勝利をおさめることができました。仕事支援では情報発信とともに住宅センターづくり、住宅デー、仕事宣伝行動に取り組み、地域での事業所ネットワークも交流が広がりました。建設労働組合の真価を発揮する一つの取り組みとして災害対策もすすめ、全木協との共同、自治体との災害協定など取り組んできました。 「9条改憲NO!」をスローガンに市民と野党の共闘、署名、宣伝、学習などの運動を強め、安倍政権のもとでの改憲反対の世論をつくり、3000万人署名、緊急署名の「二つの署名」に奮闘、オール埼玉総行動、県内15の地域連絡会など共闘を広げてきました。 土建国保を守り発展させるたたかいでは、協会けんぽに負けない健康保険づくりとして、制度メリットを充実させ、2019年度には12年ぶりの実増を勝ち取りました。共済推進では、建設労組らしさを発揮した制度を充実させ、組合を語る切り口となりました。 組織建設では新しい方針「3つの実増ラインを追求する」運動をスタートさせ、春と秋の拡大月間を中心にしながら実増を追求し、2019年度には5年ぶりの実増、2020年度には13年ぶりの2年連続実増を成し遂げました。 2.新型コロナウイルス感染症、コロナ禍により、大きく影響を受けた 第12期での最大の出来事は、新型コロナウイルス感染症の蔓延、パンデミックが計画期間の半分をしめたことです。労働組合の基本的な組織活動の「集まる・集める」ことが「3密対策」からも難しく、限定的な集まりにとどまったこと、声かけすら遠慮してしまう状態もあったことなど、「労働組合としての活動」が困難を極め、組織的に大きく影響をうけました。同時に、組織活動の土台だった組織納入・班会議を中止し、緊急避難的にDSK納入サービスの利用をとらざるをえなかったこと、DSKをやめ、組織納入を全支部・全分会で再開するまでに1年6カ月かかったことの影響は、未納者及び未納脱退の増加、つながりの希薄、新しい役員づくりの停滞など様々な方面に及びました。 ただ一方で、持続化給付金などさまざまな制度を仲間へ紹介し、「コロナ相談は組合へ」を広げ、仲間を救う活動に全力をあげて、組合への信頼を高めたこと、WEB会議やWEBセミナーといった新しい形式の組合活動も広がったこと、組織納入・班会議の意義を再確認できたこと、労働組合としての活動の原点、セオリー、教訓を再確認できる機会にもなりました。1.第12期中期計画は4カ年で奮闘してきた 第12期中期計画は、2018年度から2021年度の4カ年計画とし、これまでの「4つの柱」を継続、発展させつつ、住推協、土建国保、共済制度を確信に、目前に迫った「2022年問題」や組織強化、新しい役員づくりをすすめ、4カ年で7万人の組織回復をめざしてきました。 産業民主化のたたかいでは、働き方改革の学習、建設キャリアアップシステムの普及などの働くルールづくりをすすめ、アスベスト訴訟では原告とともに宣伝、議員訪問、議会対策など粘り強くたたかい、第1陣訴訟から13年を経た2021年5月に最高裁判決による画期的な基本的勝利をおさめることができました。仕事支援では情報発信とともに住宅センターづくり、住宅デー、仕事宣伝行動に取り組み、地域での事業所ネットワークも交流が広がりました。建設労働組合の真価を発揮する一つの取り組みとして災害対策もすすめ、全木協との共同、自治体との災害協定など取り組んできました。 「9条改憲NO!」をスローガンに市民と野党の共闘、署名、宣伝、学習などの運動を強め、安倍政権のもとでの改憲反対の世論をつくり、3000万人署名、緊急署名の「二つの署名」に奮闘、オール埼玉総行動、県内15の地域連絡会など共闘を広げてきました。 土建国保を守り発展させるたたかいでは、協会けんぽに負けない健康保険づくりとして、制度メリットを充実させ、2019年度には12年ぶりの実増を勝ち取りました。共済推進では、建設労組らしさを発揮した制度を充実させ、組合を語る切り口となりました。 組織建設では新しい方針「3つの実増ラインを追求する」運動をスタートさせ、春と秋の拡大月間を中心にしながら実増を追求し、2019年度には5年ぶりの実増、2020年度には13年ぶりの2年連続実増を成し遂げました。 2.新型コロナウイルス感染症、コロナ禍により、大きく影響を受けた 第12期での最大の出来事は、新型コロナウイルス感染症の蔓延、パンデミックが計画期間の半分をしめたことです。労働組合の基本的な組織活動の「集まる・集める」ことが「3密対策」からも難しく、限定的な集まりにとどまったこと、声かけすら遠慮してしまう状態もあったことなど、「労働組合としての活動」が困難を極め、組織的に大きく影響をうけました。同時に、組織活動の土台だった組織納入・班会議を中止し、緊急避難的にDSK納入サービスの利用をとらざるをえなかったこと、DSKをやめ、組織納入を全支部・全分会で再開するまでに1年6カ月かかったことの影響は、未納者及び未納脱退の増加、つながりの希薄、新しい役員づくりの停滞など様々な方面に及びました。 ただ一方で、持続化給付金などさまざまな制度を仲間へ紹介し、「コロナ相談は組合へ」を広げ、仲間を救う活動に全力をあげて、組合への信頼を高めたこと、WEB会議やWEBセミナーといった新しい形式の組合活動も広がったこと、組織納入・班会議の意義を再確認できたこと、労働組合としての活動の原点、セオリー、教訓を再確認できる機会にもなりました。   3.第13期中期計画のめざす方向 第13期中期計画は、コロナ禍で受けた組織的な影響を取り戻すことを第一にすえ、同時に、「数十年に一度の大きな変革期」と言われるほどの業界対策が集中的にすすめられていることや、土建国保の保険料改定、「2022年問題」の影響も考慮し、3カ年計画として、次のような位置づけのもと、すすめていきます。 第一に、不透明なコロナの収束状況を踏まえつつ、組織的な後退を取り戻し、コロナ収束後の飛躍を準備することです。 組合はコロナ禍により、組織としての基礎体力が落ちた一方で、WEB会議・セミナーなど新しい組織活動も広がりました。コロナ禍の状況しだいで、第13期の活動も制約が求められる可能性があります。相談活動・世話役活動を継続しながら原則的な活動、取り組みを再開させ、新しい活動を発展させながら、組織的な力を回復させ、コロナ収束後の新たな前進を準備する計画とします。 第二に、建設産業の大きな変化を仲間へ広げ、普及をはかり、同時に建設労働組合の真価を発揮し、産業民主化、働くルールづくり、仕事対策を具体的に前進させることです。 現在、「数十年に一度の大きな変革期」と言われる、様々な業界対策(※)がすすめられています。第13期の活動では、これらの業界対策を仲間へ広げ、組合としての取り組みを徹底していきます。 同時に、この大きな変化をチャンスととらえ、業界と地域への影響力を高め、賃金・単価引き上げ、そのための労働協約づくり、産業・現場に働くルール確立、地元の仕事は地元の業者へという太い流れをつくっていきます。 ※ 様々な業界対策…働き方改革2024年3月(P53参照)、CCUS2024年3月(P54参照)、石綿有資格調査2023年10月(P54参照)、インボイス2023年10月(P57参照)、新築住宅省エネ基準義務化2025年4月 第三に、市民と野党の共闘の新しい発展に力を注ぎ、新しい政治の実現を引き続き追求することです。 政治戦で見ると、第13期中期計画期間中には2022年・参院選、2023年・統一地方選挙、県議選、埼玉県知事選挙が予定されています。市民と野党の共闘は、2021年秋の総選挙でいってい効果を発揮すると同時に、課題も浮き彫りになったことから、その課題、教訓に学び、引き続き市民と野党の共闘に力を注ぎ、ひとつひとつの政治戦でも共闘をすすめていきます。 第四に、情勢の変化に即して組合業務の拡充をはかると同時に、とりわけ組合員への普及を前進させることです。 業界の変化にあわせ、土建国保、どけん共済会、技術研修センターなど組合業務の拡充、時には変更もすすめていきます。同時に、充実させてきた組合業務を、組合員へ普及することを重点に置き、業務推進による組合結集を高めていきます。 第五に、情勢、業界の変化を要求実現の力へ変えていくための運動と財政を支える組織の強化、組織建設の前進をはかることです。 「2022年問題」は、第13期中期計画中の2022年から2025年まで続き、これまでの1.5倍程度の75歳組合員が毎年、後期高齢者医療制度へ移っていきます。また、建設業への新規入職が大幅に改善されなければ、全体の就業者は減少が予測され、組合にとって「下りのエスカレーターを上る」ような状態をむかえます。一方で、業界の大きな変化をむかえているなかで組織率を高めることは、要求実現のチャンスとなります。こうした「きびしさとチャンスが同時に存在する時」こそ、「教訓に学び、方針に団結し、組合一丸となってすすめること」が問われます。第12期では「4つの柱」を中心に各運動をすすめてきましたが、運動の度合い、組織の増減など支部ごとの差はうまっていません。 第13期中期計画では、「方針に団結し、一丸となってすすめる組合づくり」をいっそう前進させること、そのために学習を強め、組織の強化、新しい役員づくりを強めていきます。
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